5日前、会社を辞める決意をした。

入社して半年弱。「もう少し」「あと少し」はもうやめた。


私はずっと、コンビニは必要悪だとおもってた。

入社するまで、冷凍食品はもちろん、コンビニのごはんを食べることもなんてほとんどなかった。
食べたいと思うことも、食べる必要性を感じることもなかった。


わたしの人生では「おいしい!」が最重要項目だった。

空間デザイナーの食い道楽な父に連れられて、今思えば、幼い頃から相当な贅沢をしてきた。
ワインに興味を持ってからは、美味しいワイン・美味しい料理の味と知識を吸収できる場を自ら選んできたし、さらなる興味と感動を求め続けてきた。
今でも、歳相応・収入相応ではない贅沢な食生活をしている自覚がある。

「おいしい!」の幸福感は、どんなときでもわたしを包んで、たくさんの出会いに誘導してくれたから。


多くのひとが、こんなに愛しい食べものたちに気付けないのは、コンビニのせいだと心の底でおもってた。
この「ハッ!」とする生物の鮮明さと感動を、子どもたちが感じにくくなってしまったのは、コンビニという必要悪が、食文化を通り越して生活スタイルに与えた影響のせいだと。

コンビニで食事を済ませるヒトは、仕方なく、腹を満たすための手段として、コンビニ食を選ばざるおえない状況にあるのだと信じていたし、もしくは、限られた選択肢の中で、食べものに対する感覚が麻痺してしまっているんだと疑わなかった。

だからこそ、そんな「不幸せな」人たちに「幸せ」を与えるために、敵を知ることこそが近道と、自ら入社を望んだわけだけど。
そんな考えはわたしのエゴだったようにおもう。


工場見学で、ベルトコンベアで焼かれる大量の「肉切れ」を見たとき、正直わたしは「こんなの食べ物じゃない」とおもった。
だけど、ある同期は「あんなの見ちゃったから腹が減った」と言った。

わたしは動物を絞めるとき、目的(食)と結果(死)が重なり合った瞬間に、「動物」が「食べもの」に見える。食欲が沸く。
一方で母は、レストランでメイン料理として出てきた鳩でさえ、具体的な部位(手羽先や毛穴など)で生きた姿を想像できてしまった瞬間に、「食べもの」が「動物」に見えて食欲が失せてしまう。


「食べられるもの」と「食べもの」が切り替わるタイミングは、人それぞれだ。
その相違に、優劣も善悪も存在しないし、してはいけない。
なのに、わたしはその相違を、完全に区別をていたし、そんなひとたちを「鈍い」と、心のどこかで哀れに感じていた。



仕事帰り、コンビニで買うデザートはプチ贅沢かもしれない。
コンビニ惣菜をあてにひとりで呑むビールは、一日の仕事の疲れを忘れる至福の時間かもしれない。

もしも、何か他のことをしながら、流れ作業のようにコンビニ食を食べていたとしても、ゲームや服、ボールや仕事の前では、わたしが美味しいごはんを目の前にしたときと同じように、ワクワクやキラキラを放っているかもしれない。
そこにはなんの格差もない。

わたしが「おいしい!」を最優先するためになにかを後回しにするのと同じように、人には人の優先順位があって、それは人生のタイミングで変わりゆくもので、なにかを優先させるための手助けをコンビニが担っているのだとしたら、コンビニは必要悪ではなく、純粋な社会インフラではないのか。
食事に対するマナーや感謝の欠如は、まさに鶏が先か卵が先かの水掛け論なのではないのか。

いろんな価値観を理解するつもりで入社を選んだけど、そもそもその根底には自分を中心とした価値観があって、相違を受け入れられずに穿った見方をしていた事実を、まず認めよう。



ただ、ひとつだけ変わらないこと・変われないことがある。

それは、わたしという個人が、今の会社(コンビニ)に魅力を感じないということ。


半年も一生懸命に向き合えば、コンビニ業界の魅力とやらが分からないなりに見えてくると思ってた。
だけど、見えてきたのは上記の反省と、気付きだけだった。

いつの間にか弟妹のように見える高校生スタッフが、できるだけコンビニで食事をしないようにと心で願ってしまうこと。
毎日何度もコンビニに来ては、パスタやお弁当を買って行く小学生を見るたびに、言葉では表現しきれない空しさと情けなさに、心が侵食されてしまうこと。
コンビニで取り扱う各季節のギフトを、お世話になった方や肉親に贈ったり、友人にお勧めする気には、どうしてもどうしてもなれないこと。

それは、工場の製造工程や流通、商品自体に問題や悪影響を感じているからだけでなく、もっと感情的な理屈ではないなにかがどうしてもそう思わせること。



ああ、わたしはここにいるべきではない。

こんな風に、自分の感情や価値観を断ち切れないまま、心のどこかでお客様に哀れみを感じながらこの業界に携わるのは、消費者だけじゃなく、会社に関わるすべてのヒトに失礼極まりないと思った。

そして、わたし自身の発展のためにも、こんな「苦痛」を抱えたまま、時間や労働をお金に替えるのは違うと、そうハッキリ確信・決意したのが5日前。
上司に「あなた、目が死んでいるよ」と言われたあの日でした。